町の景観が意識されるようになったのは、産業革命により化学染料や顔料ができたことで、安価な着色料ができ、乱用され、現代では「騒色」という言葉ができるほど、町景観の色が乱れたことで注目されるようになりました。当時は自然の色しかないので、必然的に美しい景観だったであろうことが想像できます。そうした美しい景観とは何かを、現代に住む私たちが考えるきっかけになればと思います。
江戸の発展
江戸は、明歴(1657年)の大火以後、本格的な街づくりが行われ元禄を経て、将軍吉宗統治の享保以前に、ほぼ完成したといわれています。
江戸の周辺には広大な武蔵野の山野・田畑が広がり、その山野、田畑、河川を縫うようにらせん状の「の」の字に発展した町でした。
この「の」の字型の町割りは、いろいろな利点がありました。
1.敵が容易に城に近づけないので攻められにくい
2.火災の類焼を防げる
3.物資を船で内陸まで運搬できる
4.開削でできた土砂を海岸の埋め立てに利用できる …などです。
江戸では、平城京や平安京のような方形の条坊制をとらず、江戸城を中心に時計回りのらせん状に発展する機能性に富んだ町づくりを行いました。※条坊制…南北の大路(坊)東西の大路(条)を基盤の目状に組み合わせた左右対称で方形の都市プランのこと。
そして、面白いことに、江戸の人口の増加はこの堀の開削と比例して、外縁に広がっていくにしたがい人口も爆発的に増えていきます。つまり町がどんどん外縁に広がり、無限に成長できるように設計されています。
らせん状というと、私たちの遺伝子もらせん状の形状ですよね…。なんとなく発展するとか、進化していくというイメージがありますね…。ちなみに、江戸城の内部も「の」の字型になっています。
1.江戸の人口は世界トップクラス!
1693年(元禄6年)の記録によると、当時の江戸の町の人口は、およそ35万人、吉宗の命令で全国の人口調査を行った1721年(享保6年)には、50万人を突破したといわれ、最盛期には、110万人から130万人ともいわれています。
ちなみに、当時の世界の人口は、1801年のロンドンはおよそ86万人、パリはおよそ54万人と推定されているので、比較しても江戸は世界の都市の中でトップクラスの人口を持つ大都市といえます。
2.階級による土地所有面積は?
古典落語などを聞くと、色々工夫しながら生き生きと生活していた様子がわかって楽しいですね!
建物の外観による色分け
江戸の建物の外観は、その色で何の建物かがわかるように区分けがされていました。
広重の江戸百景や浮世絵や昔の建物の写真などを見て、確認してみましょう!
1.神社仏閣は朱塗りの鳥居や外観。
2.表通りの大店は白壁と黒塀で、玄関先は藍色や茶色の暖簾がかかっています。
*日本橋地区はおもに商業都市として大いに栄えます。ここに書かれてある絵は、現在の日本橋大伝馬町です。
3.一般の商家は二階は土色、他は茶色の板張り。
4.武家屋敷は白土壁。
5.大半を占める裏長屋の町人たちの家は木材の色や灰色でした。
6.高名な料亭や吉原遊郭などは黒塀を巡らし、「粋な黒塀、見越しの松」とあるように粋な出会いの場でした。
江戸の街並みは現代と違って自然素材しかなく、必然的に素材職の街並みにはなると思いますが、それでも建物の目的に合わせて色で区分けをされてるので、建艦はとても美しいものだったかと思います。浮世絵の風景画はとても美しいですが、まさに絵になる都市だったんですね…。
江戸八百八町という言葉がありますが、町人たちがひしめきあっている雑踏は全体を見ればほんの僅かでした。
全体をみれば昼なお暗い広大な山野や、広大な武家屋敷の周辺の自然が多く存在した都市景観でした。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
ヨーロッパなどの古い町並みが残されている地域を見ると、とても美しく、ある意味羨ましい思いもするところもありますが、日本の江戸時代も美しい町並みだったと思うと、実際に見てみたかったと思いますね。
実際、埼玉の川越などの古い町並みのところは、観光客も多く、コロナが落ち着いたら改めて見てみたいと思います。
今後日本の景観をどうしていくかは、今生きている私たちにかかっていると思うと、ぜひ皆さんもご自分の地域の景観というものについて興味を持ってもらえるとよいかなと思います。