色の歴史⑦ 江戸時代-1で見たように、江戸の町は天海僧正により、様々な仕掛けをほどこし徹底的な呪術によって邪気が入らないように計算された呪術都市でした。
そして、そんな江戸の町の色は、浮世絵などを見ると、武家屋敷にある広大な庭園や神社仏閣、山林や農村がほとんどで、人が集中している地域は、建物の目的によって色が塗り分けられていたことがわかり、美しい景観を呈していたということがわかります。
ここでは、江戸の町がどのような景観だったのかを見ていきましょう。
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町の景観が意識されるようになったのは、産業革命により化学染料や顔料ができたことで、安価な着色料ができ、乱用され、現代では「騒色」という言葉ができるほど、町景観の色が乱れたことで注目されるようになりました。当時は自然の色しかないので、必然的に美しい景観だったであろうことが想像できます。そうした美しい景観とは何かを、現代に住む私たちが考えるきっかけになればと思います。

江戸の発展

江戸は、明歴(1657年)の大火以後、本格的な街づくりが行われ元禄を経て、将軍吉宗統治の享保以前ほぼ完成したといわれています。

江戸の周辺には広大な武蔵野の山野・田畑が広がり、その山野、田畑、河川を縫うようにらせん状の「の」の字に発展した町でした。

この「の」の字型の町割りは、いろいろな利点がありました

1.敵が容易に城に近づけないので攻められにくい

2.火災の類焼を防げる

3.物資を船で内陸まで運搬できる

4.開削でできた土砂を海岸の埋め立てに利用できる  …などです。

江戸では、平城京や平安京のような方形の条坊制をとらず、江戸城を中心に時計回りのらせん状に発展する機能性に富んだ町づくりを行いました。条坊制…南北の大路(坊)東西の大路(条)を基盤の目状に組み合わせた左右対称で方形の都市プランのこと。

そして、面白いことに、江戸の人口の増加はこの堀の開削と比例して、外縁に広がっていくにしたがい人口も爆発的に増えていきます。つまり町がどんどん外縁に広がり、無限に成長できるように設計されています。

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らせん状というと、私たちの遺伝子もらせん状の形状ですよね…。なんとなく発展するとか、進化していくというイメージがありますね…。ちなみに、江戸城の内部も「の」の字型になっています。

1.江戸の人口は世界トップクラス!

1693年(元禄6年)の記録によると、当時の江戸の町の人口は、およそ35万人、吉宗の命令で全国の人口調査を行った1721年(享保6年)には、50万人を突破したといわれ、最盛期には、110万人から130万人ともいわれています。

ちなみに、当時の世界の人口は、1801年のロンドンはおよそ86万人、パリはおよそ54万人と推定されているので、比較しても江戸は世界の都市の中でトップクラスの人口を持つ大都市といえます。

2.階級による土地所有面積は?
士農工商の階級社会だった江戸時代の土地所有面積ですが、町人が占めていた面積は全体の20%に過ぎず、その大半の60%は三百諸侯の大名や旗本の700以上の武家屋敷で、その他の20%は約千を数える神社仏閣の土地でした。
つまり、町人の土地は人口密度が非常に高く1㎢あたりなんと5万人!がいたということだそうです。つまり、130万人の町人は神田から浅草に至るわずかな土地に、ぎゅうぎゅうに詰め込まれる形になりました。時代劇でよく目にする裏長屋は、間口1間半奥行2間しかなく、井戸や雲隠れ(トイレ)は共有です。隣との仕切りは板1枚、音は筒抜けでプライバシーなどはないも同然。
そんな環境でも人々は助け合い、気を使いながら江戸の生活を楽しんでいました。
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古典落語などを聞くと、色々工夫しながら生き生きと生活していた様子がわかって楽しいですね!

そして、全体の80%を占める武家屋敷や神社仏閣のそのほとんどは、広大な庭園や森林に囲まれており、そのため江戸の町の景観としては自然が中心であったといえます。武士の屋敷は禄高に応じて幕府から拝領され、10万石以上の大名の上屋敷は7000坪(約2万3000㎡)以上あり、これは東京ドーム約半分の広さになります。

建物の外観による色分け

江戸の建物の外観は、その色で何の建物かがわかるように区分けがされていました。

広重の江戸百景や浮世絵や昔の建物の写真などを見て、確認してみましょう!

1.神社仏閣は朱塗りの鳥居や外観。
50景 増上寺塔赤羽根
100景 浅草金龍山
72景 深川三十三間堂
2.表通りの大店は白壁と黒塀で、玄関先は藍色や茶色の暖簾がかかっています。
7景 大てんま町木綿店
75景 大傳馬町こふく店

*日本橋地区はおもに商業都市として大いに栄えます。ここに書かれてある絵は、現在の日本橋大伝馬町です。

3.一般の商家は二階は土色、他は茶色の板張り
12景 上野山した
4.武家屋敷は白土壁。

67景 外桜田弁慶堀糀町  この絵の左中ごろにある赤門に白壁のお屋敷は、近江彦根藩・井伊掃部頭(いいかもんのかみ)の上屋敷です。

5.大半を占める裏長屋の町人たちの家は木材の色や灰色でした。

6.高名な料亭や吉原遊郭などは黒塀を巡らし、「粋な黒塀、見越しの松」とあるように粋な出会いの場でした。

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江戸の街並みは現代と違って自然素材しかなく、必然的に素材職の街並みにはなると思いますが、それでも建物の目的に合わせて色で区分けをされてるので、建艦はとても美しいものだったかと思います。浮世絵の風景画はとても美しいですが、まさに絵になる都市だったんですね…。

 

江戸八百八町という言葉がありますが、町人たちがひしめきあっている雑踏全体を見ればほんの僅かでした。

全体をみれば昼なお暗い広大な山野や、広大な武家屋敷の周辺の自然が多く存在した都市景観でした。

まとめ

いかがでしたでしょうか?

ヨーロッパなどの古い町並みが残されている地域を見ると、とても美しく、ある意味羨ましい思いもするところもありますが、日本の江戸時代も美しい町並みだったと思うと、実際に見てみたかったと思いますね。

実際、埼玉の川越などの古い町並みのところは、観光客も多く、コロナが落ち着いたら改めて見てみたいと思います。

今後日本の景観をどうしていくかは、今生きている私たちにかかっていると思うと、ぜひ皆さんもご自分の地域の景観というものについて興味を持ってもらえるとよいかなと思います。